チョットひとこと 第21話

皆様お元気でしょうかぁ?! またまたセッセと忙しく、明日明日と生きている内、ハッと気がついたら3月も末、またまたHPを開けて下さる方々にお叱りを受けました。新しい“ひとこと”が遅くなり、ごめんなさ~い!

昨年から今年にも、郷里秋田も含め日本海側や山間部の雪には驚きです。帰秋した折、近所の88歳のバア様が“今迄生ぎできて、見だごともねえ行きだすてぁ!”と言っていた。

雪は深刻な問題! そして香津代を山程の小さい頃の思い出に浸らしてくれる。---家は秋田市の駅前だったので汽車で届いた荷は、冬は馬そりで配達するのです。出発時に近所の子3~4人でそりの後にしがみつく、足には“ドッコ”をはいて! “ドッコ”とは、下駄の歯が三角になっていて、その山の所に金具が貼ってある和風スケートなのだす。馬をひくオド(おじさん)に怒られながら半日市内を廻り、帰宅した時、足は、凍って“つらら(秋田ではタロンペと言う)”のようになって突っ張り、歩くと折れそうで感覚が無く、祖母に“さあ、風呂さ入えれ!”と凍りついた着物をバリバリはがされ、ドボーン! ジリジリと手足が動き出し体がとけ、やっと湯の温かさがジワーンワーンとしみてくる。そんな毎日の中で“春”を待つ! “春”は必ずやって来る! 裏切らずに、必ず来てくれる! 毎日毎日雪の中で待ってました。ですから、東京に18歳で出た時に“東京には冬がない、秋からすぐ春だあ!”と、感激したものです。でも、今はあの閉ざされた11月の初雪から4月中旬の雪解けまでの約半年の「耐えながら待つ」あの心が、実は、今こうして役者道を変らずモクモク歩き続けられてる私の原点なのだと思え、秋田の風土に感謝がつのります。

さて、“縁(えにし)”という見えない働きにいつも驚かされます。松平 健公演の打ち上げ会場の店名を見てびっくり! あさり座を経営してくれている中川さんの娘・美希ちゃんが働いている店だったり(勿論会場を決めた係の人は知るよしもなし、こんなに店が一杯の東京でねぇ… よりによってねぇ)

この1月の片岡鶴太郎さんのドラマでロケが伊東の川奈ホテルと聞きびっくり! 香津代も知っていて、またまた中川さんちの美希ちゃんの友人・純子ちゃんが働いていたホテル。そして純子ちゃんは職場結婚、そのご主人の方がディナーのお世話をしてくれ、そんなこんなで川奈ホテルの丸山貴生社長さんとも話しがはずんだ。実は、丸山社長さんもホテルの支配人役として出演してるのです。なかなかの自然な演技でびっくり。また鶴太郎さんが若い時(33歳の美希ちゃんが中学生の時)、美希ちゃんの学校に“かたじけない!”という流行語の番組でロケに来、テレビに映るというので鶴太郎さんの一番近くで騒いでいたのが美希ちゃんだったとか(東京には学校だっていっぱいあるのにねぇ)。

またある日朝7:00集合の中野区沼袋のロケで、俳優の仕度部屋を制作の方が頼みに頼み込んで借りたお家の奥様が、香津代の高校の同期生と大学の同級生だったと言われびっくり! そこんちの亡くなったおばあちゃまのお部屋で仕度させてもらってる時、壁に数々の姿の日舞の写真が…… 尋ねると、おばあちゃまはご近所にも教える程の踊りの名手だったとの事。残されたたくさんのお扇子を、もし使って頂けたらとゼーンブ頂戴した。なんと帰宅して拝見したら、素晴らしいお扇子ばかり。きっとおばあちゃまは、そのお扇子が気掛かりで香津代を呼び、箱からお扇子を出し舞台の上で皆さんにも見てもらいたかったのではないかしらという縁(えにし)! そして、またまた香津代は毎月3~4日(行けない月もあるけど)秋田の日舞の先生のお手伝いに行く事になった! 香津代が6歳から手ほどきを受けた師匠の娘さんも今や83歳…… (初代の事を書いた数年前の記事をのせますね。)


<浅利流ざっくばらん>懐かしいお師匠さん

役者道を生きる事になった私の原点は六歳の六月六日(から習い事を始めると上達すると言われた)、芸事の好きだった祖母タカと母栄子が師事していた初代・藤蔭季代恵師匠に連れて行かれ日本舞踊を習った事だと思う。

師匠を“おっしょさん”と呼んだ。小太りで観音様のようにふっくら可愛(かわ)いく、きめ細かで色白、髪は前髪を七三に分け、後からグーっと巻き込み上げていた。六歳の私を、おっしょさんは体を正面に向け自分の両足に私の両足をのせ、唄(うた)いながら手を取り振りを教えてくれた。“お月様いくつ十三ななつ……”と。

お稽古(けいこ)にババは必ずついて来、帰宅すると押入れの上の段の物を引っ張り出した仮設舞台に私を立たせ、今稽古して来た分をもう一度やってみろ! と! このババの憧(あこが)れのおっしょさんは、秋田県本庄市の料亭「宮六」の一人娘。幼時より舞踊音曲の芸事を習い、東京で結婚をしながらも修行を積み、十数年後季秋、夫死去後、料亭を始末し秋田市で八人の子供を抱えながら教授生活に入った。 弟子の一人一人をちゃんと見つめ、長所をほめ、短所は面白い話にして笑い飛ばす。一年に一回桜の咲く頃(ころ)、劇場で化粧、衣裳をつけ、小道具を持ち、背景も有りの本式のおさらい会を催す。助っ人の三味線弾きの方と二十曲近い弟子の曲目を弾き唄う。開演前と休憩時に生卵の黄身だけを一気にクィと飲んでいた。

八十八歳で亡くなるまで言われ続けた“いい気になるなョ! シナット(しんなりと)シナット芸はうまぐなってイグもんだ!”の言葉が頭にしっかり、こびりついている。 あられを手で転がしながらポリポリお茶を飲む手や口元の可愛らしさが忘れられない。藤陰流正派分家家元であり地唄舞神崎流分家であり長唄は杵屋五清! 弾き唄で教えてくれる“おっしょさん”! 今、もう一度習いたい! もう一度怒られたい! もう一度会いたい! しきりにそう思う新しい年のはじめです!!

浅利香津代(女優)


二代目は初代と肌や手つき、喋り方、その訛り、頭の回転の良さ、勿論踊りの才能、志の高さなどなど香津代には折り重なって見え、“和子ちゃん!”と初代と同じ音で呼ばれ、昔と変らない関係に、家族が死に絶え、“ひとりぼっち”だと思い込んでいた私の心の中にボワ~ンと“家族とか家”とかの灯がついたような気分になった。2月の3日間の滞在中、東京では語る事のない、秋田に“家族”が、“家”があった頃の自分に戻り秋田弁で先生をへんへと呼び思い出を喋った!

帰京後こんな文章を見つけた--「仏陀は語る“雨の降るのも、風吹くのも、花の咲くのも、葉が散るのも、すべて縁(えにし)によって生じ、縁によって滅びるもの。この身も父母を縁として生れ、心も、経験と知識とによって育ったもの。網の目が互いにつながり合って網を作っているように、すべてのものは、つながり合って出来ている。一つの網の目が、それだけで網の目であると考えるのは誤りなり。網の目は、何かの網の目とかかわりあって、一つの網の目なのであり、網の目は、それぞれ、他の網が成り立つ為に役立っている。……すべての存在と網の目のようにかかわり合って生かされ生きている。“縁(えにし)と絆(きずな)”に支えられ、それこそが人間を自ずと“原風景に回帰”させる原動力である。」と。ウ~ン! でも、現代文明は「縁(えにし)」や「絆(きずな)」を死語にしようとしているし、「カネ」と「モノ」と「スピード」が価値有るものとなってるこの頃……でも、でも「人間の中身(人間性ですね)」は“カネ”や“モノ”“スピード”には置き換えられないもの! 見えない“縁(えにし)”の働き、そして、その縁が網の目にして織りなし“絆”になっていくこの働きが、たった一度の人生に本当に有る事は十分確信できます。
さぁ! これからも皆さんと網の目のようにかかわり合い、生かされながら生きていきま~す! 春がきましたぁ!

平成18年弥生吉日 香津代